タイトルからずっと気になっていたのですが、重そうな話だなぁと思って読めずにいました。
最近、やっと読めて面白かったので紹介します。
『こんな夜更けにバナナかよ』
内容<amazonより>
人工呼吸器を着けながらも自由を貫いた重度身体障害者と、生きる手ごたえを求めて介助に通う主婦や学生ボランティア。
ともに支え合い、エゴをぶつけ合う、そこは確かに「戦場」だった―。
札幌在住の大型新人が放つ渾身の長編ノンフィクション。
印象に残ったところ
印象に残ったところを3つ紹介します。
1.障害者が「普通」の生活をする権利
今の日本では、介護が必要な多くの障害者は、施設や病院で生活をせざるを得ない状況です。
なぜ、障害があるというだけで「普通」に生活する機会を奪われなければならないのでしょうか。
そのことが「差別」だと言えるのではないでしょうか。
障害者がみんな「手厚い保護」を求めているわけではありません。
「街で暮らしたい!」と要求することは、「ワガママだ」「ぜいたくだ」と捉えられてしまいます。
しかし、健常者にとって「ワガママ」だと思えることを要求していかなければ何も変えられません。
ぼくは日本の福祉を変えたい。それがぼくの欲望。(p15)
鹿野さんはこの信念を持って、「ワガママ」に思われることを貫いたのだと思います。
2.ボランティアをやることを通して得るもの
ボランティアをやることで、 「障害者」や「病者」と向き合うことになり、それは自分の理想と現実の中で起こる矛盾した気持ちに向き合うことになります。
そのことで、人間としても成長していくことになります。
また、ボランティアをやることは、精神的にしんどくならずに生きるためのツールにもなります。
人間にとって「人を支えること」は、「支えられること」以上に大切なことなのです。
3.介助者と障害者は、個人と個人として「対話」ができるような関係を目指す
健常者は、障害者を前にすると自分より「弱い立場」であるという思いが働き、障害者の期待や要求にどこまでも応えなければならないという強迫観念にとらわれやすくなります。
また、健常者どうしであれば可能な「拒否」や「対立」も、障害者を前にすると過剰な「やさしさ」や「思いやり」を無理して演じがちな面があります。
介助者が障害者との摩擦や対立を避けて、ただ黙って従ったり、逆に突っぱねたりするだけでは、「介助者対障害者」から「個人対個人」の関係にはなかなか踏み込めません。
障害者と健常者が「共に生きる」ためには、相手に遠慮ばかりせず本音で語り合い、摩擦や対立を「対話」で乗り越えていけるような関係性を作っていく必要があります。
障害者と支援者が「対話」の出来る関係を目指す
鹿野さんが「日本の福祉を変えたい!」という信念を持って、命を懸けて在宅生活をやってみせたことが本当にすごい。
その中では、綺麗事では済まない現実があって、常に人とぶつからないといけませんでした。
それってすごくしんどいと思います。
それでもやり遂げたのは、日本の福祉を変えたいという信念があったからじゃないかと思います。
介助していた人たちも、そこは共通してたのではないでしょうか。
私も、障害を持った人たちがより良く生きていけるように、「対話」ができる関係を作っていきたいです。

コメント