先日、オンライン哲学カフェに参加しました。
哲学カフェとは、身近なテーマに関してみんなでじっくり話し合い、ともに考えるプロセスを楽しむ場です。
「哲学」とついていますが、できるだけ日常の言葉を使って、自分たちの身近な問題に引きつけて話します。
テーマは【普通って何?】でした。
その時に印象に残ったことについて書きます。
本題の前に
私にとって「普通」を考える上で避けて通れない事柄があるので、こちらの記事でそのことについて書きました。
それはずばり、私が「レズビアンである」ということです。
良ければ読んでみてください。
印象に残ったこと
特に印象に残った話は次の3つです。
1.集団の「普通」と個人の「普通」
集団の「普通」は多くの人が共通で認識している事柄です。
たとえば、「異性を好きになる」といったことです。
それに対して、個人の「普通」は人それぞれ異なるものです。
たとえば、「朝食にはパンを食べる」といったことです。
「普通」だと安心感がある一方、平凡だと言えます。
また、集団の「普通」の影響力は大きく、「普通=正しい」という論調で意見を押し付ける時に使われてしまうこともあります。
2.「普通」は社会的に望ましいとされる
「普通」が実際に多数の人に当てはまるとは限りません。
社会の場合、「普通」は社会をうまく回すための「モデルケース」 になっていることがあるようです。
たとえば、私たちが何となく感じている「普通の人生」とは、
大学に進学し、卒業して会社員になり、20~30代で結婚し、子供が生まれて育てていく、というようなものです。
このモデルケースを想定して、多くの社会の仕組みが作られたり企業の広告が作られたりしています。
3.社会の「普通」を変えるには
ここで、社会という集団はどうやって作られているんだろうと思いました。
誰かに強制されて作っているわけではなく、所属しているひとりひとりが作っているはずです。
なのになぜ、「普通」ではない人が生き辛さを感じることがあるのでしょう?
ここからは一人で考えたことですが、
「普通」ではない、少数派の人たちのことは見えにくくなっています。
だから、社会の「普通」を変えようとするには、まずは少数派の人自身が声を上げなくてはなりません。
それには、勇気や労力が必要です。
これまで、たくさんの勇気や労力によって社会の「普通」は変わってきたと思います。
まとめ:苦しみを生まない「普通」作りに協力したい
「普通」について考える時、私はどうしても「普通って全然普通じゃない!」という思いがこみ上げます。
そして、自分も気が付いていない「全然普通じゃないこと」がたくさんあるんだろうなと思います。
「普通」と言われるものによって苦しむ人がでてこないような、社会の「普通」を作ることに協力していきたいと思います。
コメント